千吉商店の歴史

千切屋一門の由来

京都における最古の商家の家柄として世に知られた千切屋一門西村家の遠祖は、遠く奈良時代の藤原淡海公の末裔に求められ、その祖貞喜は工匠神人として南都一条院に関係し、春日神社若宮祭事の時、興福寺衆徒の供進する千切花の台を毎年製作奉納していたと伝えられ、平安遷都の際、宮都造営の用を拝して京都に移住したと伝えられている。その後、応仁の乱に際して江州甲賀西村の里に何を避け、乱後京都に復帰して初めて法衣業を三条室町で始める。この法衣商人としての初代貞喜は、遠祖工匠神人貞喜に因んで「千切台」をその商標として屋号を「千切屋」と称し、名を千切屋与三右衞門と改めている。

初代与三右衛門の創業

初代与三右衛門が遠祖以来の工匠神人をやめて法衣業を始めた所以は、妻が法衣商をしていた本島氏の娘であった縁故で始めたと言われている。創業した室町三条の西であったが、創業した1555年当時その周辺には、多くの寺院が集まっていた。東には平安遷都以前からある六角堂を始め円福寺(室町姉小路上る)常楽寺(室町三条下)妙覚寺(室町御池上る)妙顕寺(新町御池上る)称名寺(烏丸二条下る)があり、本能寺(西洞院六角)法然寺長福寺(烏丸錦小路)龍福寺(四条室町)妙傳寺、安養寺、妙満寺等々があった。そして町名も「衣棚」といわれ与三右衛門はじめ多数の業者が集結した。すなわち座人に対する棚買が、この町内に集まり、固定化したのです。

創業時代の京都1

初代与三右衛門は、織田信長が生まれた1年前の1533年に生まれて1604年に亡くなられましたが、この間の京都は、非常に興味深い時代でありました。まさに混沌の中から新しい時代ができたど真ん中でありました。崩壊寸前の室町幕府と既得権益グループ、新しく起こってきた商人とかれらが信仰した日蓮宗、そして新しい統治を目指した信長と秀吉、これらが三つ巴になっていた時代でした。その時代、京都は日本で一番大きい都市であり、人口は20万から40万人といわれており、都心は上京と下京に分かれていました。

創業時代の京都2

前述した興隆した商人としての町衆と日蓮宗は、相互補完の関係にありました。都市型自主自立してきた豪商達にとって日蓮宗の教義は、自分たちの思いに適合した「正法厳守・現世利益・生業尊重・無差別平等」といった思想であった。町衆は日蓮宗の信仰から心の平安と日々のモーティベションにつながるイデオロギーを獲得し、それに対する見返りとして莫大な富を提供した。

この時代京都の7割が日蓮宗になったと言われている。21ヶ寺もの本山が創建され1532年には山科本願寺を攻撃し石山に退去させた。この功績により、軍事警察権も持つようになったが、1536年比叡山や公家などから反発をされ武力によりすべての本山が焼かれ追放された。これを天文法華の乱と呼ばれている。大方が堺に逃げたが、6年後許されて15ヶ寺の本山が再興している。その再興にも町衆が、力を発揮したと言われている。
西村家も与三右衛門の時代より、日蓮宗の日什がおこした妙満寺を菩提寺にしており、のちの家訓につながる根底の思想のベースにあると推察されます。

創業時代の京都3

初代与三右衛門の生まれた1530年代の話を前回書いたが、それから京都では、様々な事件が起こったが、初代与三右衛門が法衣商を創業した10数年後に織田信長が入京し、次第に権力をえた。その後1571年京都に強力な軍事力と経済力を持っていた比叡山を焼き討ちし、1573年、足利義昭を追放し室町幕府は終焉した。そして、ほとんど天下統一した1582年に本能寺の変が起こりました。本能寺も信忠がいた妙覚寺や二条殿も創業の地から150mぐらいのところにありました。それから秀吉が天下統一を達成し、京都に聚楽第をつくり、1590年代になると御土居作りや町割りなどの京都の都市改造を行いました。下京にあった寺院を寺町や寺の内に移転したのもこの時期でした。創業の三条室町は、初代与三右衛門が法衣を棚売しており、衣棚町と呼ばれ、町割り地割りでできた衣棚通は、この衣棚町を起点にしていたので、この名前になったと思います。

与三右衞門創業から1世紀

初代与三右衞門貞喜は、天文元年(1533)応仁の乱以後戦災を避けて江州甲賀郡西村の里(滋賀県甲賀市水口)に移住していた西村家に生まれました。当時から西村家と名乗っていたらしい。天文の乱以後京都の町も平和取り戻し復興してきたので、弘治年間に京都に帰り建仁寺町に仮住まいしました。その後、三条室町西入るの中間あたりの北側に店舗を設け、大舛屋本嶋氏の娘 福と結婚して屋号を千切屋として、暖簾に千切台の模様をつけ、本嶋氏の縁により、金襴袈裟法衣等の裂地の仕立て販売を始めました。これが千切屋の起源でありました。